音楽系女子のコン活事情

クラシック音楽に興味はあったけど、機会がなかったあなたへ。【コン活(=コンサート鑑賞活動】おすすめします

HJリムの音楽について、音大ピアノ専攻卒の私が思うこと。

 

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・・・もし、HJリムが日本で音大生をしていたら。

 

 

 

 

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(レッスンにて)

 

先生「…リムさん、自分のやりたいことを正直に表すのはいいんだけど」

HJ  『自分のやりたいことというより、これは作曲家の意志を汲んだ結果です。』

 

先生「大きな音を出したいのは分かったから、もう少し角の立たない深みのある音に」

HJ  『なぜこの作品を演奏するにあたって、"角の立たない深みのある音"が必要なのですか?

今現在の私がこの曲を最大限表現しようとすると、音の綺麗さに拘ってる時間はないんです。私がそこに拘ってしまうとこの勢いは出せなくなります。』

 

先生「この作品で、勢いを過剰に出す必要はないと思うのだけれど」

HJ  『なぜ必要ではないと思われるのですか?間延びした音楽は退屈ではないですか?』

 

先生「リムさん、それは違うわ。間延びしていると感じさせないのが美しい音色なの。」

HJ  『だから先ほど言ったじゃないですか。なぜ演奏家として歩む道を一本道にされようとするのですか?

なぜそんなに私を丸くさせようとするんですか?出る杭はお嫌いですか?』

 

先生「・・・。」

 

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もちろんこの会話は完全な妄想であるし(先生のイメージは私の師匠)、実際にこのシチュエーションに遭遇した彼女がそう言うとは限らない。まずないだろうけど。

 

つまり私がここで表したかったのは、

HJリムは、「思考と努力のピアニスト」だ、ということ。

 

  • 演奏を目の当たりにして

 

先日行われた都響とのチャイコン共演、そして銀座ホールで開かれたバッハの平均律第1巻の演奏会を聴いて改めて思った。

 

案の定、HJリムの演奏は破天荒だった。

コンサートの休憩中さえ楽屋でピアノを全力で弾けるほどにスタミナの溢れる彼女によって、都響も聴衆もぶんぶん振り回された。

揺らしまくったリズム、誰も目をつけなかった和声の強調、弾き振りをするかのような左手の動き、ジャズっぽささえ感じさせるチャイコフスキーがそこにはあった。

演奏後、チャイコフスキーらしくなかった!と怒っている観客も散見された。

 

平均律は第1番をドビュッシーのグラドゥス・アド・パルナッスム博士を彷彿とさせる速さでぶっ飛ばし、そのまま全曲とも、いわゆる"今まで聴いたことのある速度"より遅いものはなかった。楽譜に書いていないオクターブもガンガン鳴らし、ペダルもふんだんに使っていた。前代未聞だ。

今回はリサイタルだった為ファンが多かったのであろう。怒っている人はいなかったが、一様にざわざわしていた。みな語らずにはいられないのだ。

 

今回私はバッハのリサイタルの曲目解説を担当させてもらったが、あれは絶対彼女が書くべきなのだ、ほんとうは。

解説を書くにあたり、図書館で著名なバッハ研究家の記した文献を参考にしたが、「牧歌的な」と書かれていた曲は悉く激しく弾かれていた。曲の雰囲気について触れなくてよかったと心から思った。

彼女の音楽は、たとえその曲を熟知していたとしてもまったく予想ができないくらい、思考と知識の遥か深淵からきている。私なんかが辿りつけるはずがない。

 

  • 彼女の音楽について思うこと

 

彼女の音楽には、こんな理由があると思っている。

 

楽譜に書かれたひとつひとつの存在理由を―――おそらく直筆譜の染みひとつさえ、「なぜ?なぜ?」とどこまでも掘り下げ、

すべてに対して納得する答えの出せた作品しか、人前に出さない。

 

なぜ"チャイコフスキーらしくない"と感じるの?」

なぜバッハのこの作品はみんな大体同じ速度で弾くの?」

 

"なぜ"の答えがありそうな文献を片っ端から読み漁り、作曲家が愛読した哲学書も聖書も熟読し、また自らも思考を巡らせ、一歩一歩、真理へ近づいていこうとする。

もちろんその作業に終わりはなく、彼女が生きている限り毎日毎時間毎秒続く。

 

きっと音楽だけではなく、彼女は人生で起こる全ての事象に対して「なぜ?」が止まらないタイプなのだと思う。

まるで幼児の質問期のように。

そして、出た答えを外へ向けて完璧に伝えるために彼女は寸暇も惜しんでピアノを弾くのだろう。

 

そうして生まれた彼女の力強い主張を目の当たりにして、はじめ聴衆は面喰う。

しかし、知りたくなるのだ。彼女がその思考に辿りついたその過程を。

演奏を聴いて頭の中に浮かんだ感想に「なぜ?」と自問し答えを出したくて、繰り返し聴きたくなる。

だから彼女の物販にはコンサートの度に長蛇の列ができるのだと思っている。

 


(※ここまで好き勝手語ったが、打ち上げの席で軽く話したことはあっても、私は正式にHJリムへ音楽観についてインタビューをしたことはない。だから上記はすべて私の推測に過ぎないし、まったく違うことを言われてしまうかもしれない。)

 

 

  • HJリムのススメ

 

それでも、初めてHJリムの音楽を目の当たりにした日から私は思っている。

ピアノを専攻する日本の音大生たちに一度聴いてほしいな、と。

 

今まで聴いたことのない破天荒すぎる解釈と音色に、最初は拒絶反応を示すかもしれない。

でもその音ひとつひとつに籠められた、HJリムによる確固たる理由と自信を感じたとき、

「私、この曲に何を考えて弾いていたっけ・・・?」と頭が揺さぶられる。

 

先生に言われたから、大半の演奏家がこうやって弾いているから…そんな曖昧な理由で弾いてなかったっけ?と。

そして、"この曲は本当はどんな曲なのか"、家に帰ってピアノの前に座ってしまうはずだ。

 

そして一部の音大生は、HJリムによって音楽観を変えられてしまうと思っている。

特に今演奏にスランプを感じている人たちは、彼女からいろいろなヒントを得られるに違いないから。

 

 

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しかし次の日、三浦文彰さんのヴァイオリンの音色を聴いて心からホッとした自分がいた。

私はどうやらバッハは静謐な気持ちで聴きたいものらしい。

彼女のベートーヴェンと、ショパンのバラードが好きだ。

 

HJリムは、まだ26歳。今後歳を重ねていくにつれ、音楽はどれほどの進化を遂げるのだろう。

きっと同世代より何百倍も"セカイ"を考え抜いているHJリムのこの言葉を引用して、ようやく送信ボタンを押そうと思う。

 

なぜこの、飛び跳ねたくなるような、エキサイティングで革新的で、魔法のような、偉大で美しい音楽を、“クラシック音楽”だからという理由だけで地球の人口の大半の人が退屈なもの、として無視してしまうのでしょうか。

私には答えがありません。
けれど、この状態を変えなくてはならないことだけは分かっています。

今、この瞬間に、一緒に始めましょう。

 

 

長々と失礼いたしました。